《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
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静坐は静坐の法門
2015.09.05
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行為を行なう際には動機があるのが当然だと思われているところがあります。
殊に自分がよくわからないものに関してはその傾向が強い。
働くのはお金を稼ぐため。
体操をするのは健康のため。
といったように、Aはxのためにすると捉えるので、静坐などではとくにそう思われがちです。
しかし、動機があれば動機に関心があるのであって、行為は動機が満たされれば必要ないものになってしまう。
つまり、動機があるところ、行為は本当に必要とされていない。行為は手段ですから。
「静坐は安楽の法門である」と静坐創始者の岡田虎二郎氏は述べていますが、これはあくまで方便で、「静坐は静坐の法門」であるだけでしょう。
静坐をすれば安楽になる、静坐をすれば健康になる、静坐をすれば姿勢がよくなるなど、どれもそうではありましょうが、それらは副産物であって、求められるべきものではない。
本当に好きなものについては、その行為のほかに求めるものはないでしょう。
絵を描くことが好きなら、絵を描くことそのものが動機であり、目的となっているはずです。
絵を描くことで人に認められたい、能力を活性化させたいといったことが付随するなら、それはやはり絵を描くことそのものが好きなわけではない。
はじめは絵を描くことそのものを愛していたとしても、いつの間にか手段化していることは往々にしてあることです。
静坐は静坐そのものがいいのであって、ほかには何もない。
「なぜヤギを飼っているのですか?」という質問に「ヤギだから。」と答えるのも同じ理由です。
禅問答のようと言われたとしても、そう答えるよりほかない。ないけれども、それでは一般的に会話になりにくいので、方便というのを入れてみたりするのではあります。
ただ絵を描くことが好きだっただけなのに、人に認められたいという手段に代わっていくように、逆に健康になりたいから静坐をしていたのが、静坐そのもののよさに気づいて静坐のために静坐をするようになることもあり得るわけです。
先日、紹介しました森田療法も
「ルールを守ったらから治る」のではなく、「ルールを守っていることが治っている。」
静坐をしたから悟るのではなく、静坐をしていることが悟っているとも言える。
実際、岡田氏は静坐は「悟後の修養」とも述べています。
俳人の高浜虚子も俳句に触れただけで悟っているとすら述べています。
Aはxのためにする(A for x)という考え方が染みついている我々にとっては、「?」が頭に浮かんで思考停止してしまうでしょう。しかし、それがいいのです。動かずにそこに留まる。
AはAのためにする、AはxではなくAなのだから。
坐るということがもっとも何もしていないように見える。
体操なら身体を動かし、俳句ならひねったりと動きがあるものは動機を連想させてしまう。
しかし、坐ることは動きもなく、あえて言えば連想させる動機は精神統一の修行といったくらいでしょうか。
もちろんその動機は間違いなのですが、動機を連想させにくいというところが、もっとも優れていると言えるでしょう。
座禅はお坊さんの修行のためという固定的な動機が付着してしまっています。
本来はそうではないのですが、一般の人が動機をイメージしにくいものがもっともいい。
そのためには、いまや忘れ去られている静坐は動機のない行為を教えてくれるものとして適当なものでしょう。
9月20日(日)10:30~12:00
丹波橋のManei Cafeにて静坐会が行なわれます。
涼しくなってきて坐っていても心地いいものです。
