《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
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呼吸(を邪魔しない)法
2016.01.18
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呼吸法とよく言われますが、最近、呼吸法とは呼吸を邪魔しない法のことではないかと思うようになりました。
前々回に乗馬の静定について書きました。 馬上で上手な人ほど身体が動いていない。身体がぐらぐらするということは、つまり重心があちこちに移ってしまい、馬もスムーズに動けなくなる。馬が揺れ、人間もまた揺さぶられ、どんどんバランスが崩れていくといった悪循環に陥ってしまう。 結局何のための静定かと言えば、馬の邪魔をしないということに尽きるのでしょう。 馬が動きやすいように動いてもらい、人間は極力その邪魔をしないことだけを心がける。
呼吸もこれと同じだなと。 先日、静坐会に調和道の丹田呼吸法を十数年やってきたが、みぞおちがやわらかくならないという方がお見えになりました。暗く、なにやら悲壮感すら感じさせられる。でもその気持ちはよくわかります。 私も乗馬にしろ静坐にしろセンスはないと思っていて、みぞおちも最初よりは動くようになってはきていますが、その歩みたるや遅々たるものです。静坐を長年やっている方がみぞおちが落ちるということを解説できなかったりするのは、最初は硬くてもしばらくするとやわらかくなってきたから、さほど苦労しなかったからだと言えるでしょう。要するにセンスがあった。 体質もあります。体操をしていなくても身体がやわらかい人はいますから。
ただ、熱中しすぎるとよけいに身体が硬くなり、呼吸もスムーズにいかなくなる。 岡田虎二郎氏も「熱中と熱心は違う」ということを述べています。熱中はほかのものが見えず、やみくもに力んで取り組むことを指すのでしょう。熱心はやわらかく、力ではなく気を込めるというような意味合いでしょう。 よく脱力が大事だいうのも聞くところですが、これも呼吸をスムーズにさせるためのもの。つまり、馬の邪魔をしないことと同じで呼吸の邪魔をしない。 呼吸法というと、腹式だの逆腹式だのと一生懸命腹をふくらませたりへこませたりすることと思われがちですが、そうではなくて呼吸筋を含め、呼吸に関与する全身をゆるめて呼吸しやすくするだけです。 ヨガもそうですね。身体を動くようにすることで、座りやすく、呼吸しやすくする。考え方は非常にシンプル。 呼吸しようとすると力む方向にいく、だから呼吸の邪魔をしないということを大切にします。 すると、頭のてっぺんから吊られる感覚や、みぞおちを支店としたやじろべえのような感覚も、邪魔をしないためであり、邪魔をしないから生まれる感覚だということもわかってきます。
岡田氏は「畳の上の水練」ということも言っていて、普通は畳の上で泳ぎの練習をしても上手くならない例えとしても用いられますが、坐ることで下に押される感覚が味わえるので、坐ることは泳ぐことに効果があるように思えます。乗馬もそうで、「畳の上の乗馬」と言い換えると、坐ることが乗馬の練習にもなっている気がします。逆に乗馬が静坐の練習になっているように、お互いが影響し合っている。
「呼吸を邪魔しない法」は長いので、「呼吸法」と言いはしますが、意識としては「呼吸(を邪魔しない)法」ととらえておくと呼吸法の助けになるのではないかと思います。 邪魔をしている(硬くなっている)ことに気づけば、そこを意識しているとゆるんでくる。これもゆるませようとすると硬さが取れないので、ただ違和感に気づいていること。ああ、硬いなあと感じているだけ。呼吸は変えられない、変わるとすれば、呼吸周辺だけだということでしょうか。くねったホースをまっすぐにしても、出るのはやはり同じ水。
