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《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記

主観から客観へと跳躍-私の句作姿勢

2016.04.22

「私のよしとする俳句は日常と非日常がぴったり重なっている瞑想がもたらす瞑想的な作品。」
以前のブログで「私の俳句観」に載せたものです。
http://zentekido.jugem.jp/?page=1&cid=4

もう少し書き足しておくことがあります。
「客観写生」とホトトギスの時代から言われる言葉がありますが、これは一般にはまず対象ありき、対象をしっかり観察せよという意味だと考えられています。
それは間違いではないのですが、私が思うに瞑想的な作品になるには、まず自己に沈潜することがはじめにやってきます。
最近の句に「鶯や己に耳を傾けて」があります。
とくに上手いものではなく、あまりほかの人には響かない句だと思われますが、この句に私の句作の姿勢が表れている。
ここでの己は鶯ではなく、私自身です。最初から鶯を聞こうと思っているわけではない。自分の感性に耳を傾けると、鶯が聞こえてきたということ。
以前、大河ドラマの宮本武蔵で、柳生石舟斎が武蔵と坐禅をしているシーンがありました。しばらくして石舟斎が武蔵に「鳥の鳴くのが聞こえたか。」と聞く。武蔵には聞こえませんでした。己に沈潜するのと己にとらわれるのは違うこと。何も聞こえなくなるほど没頭するのは己の修行に夢中になりすぎだということでしょう。静かに自己に沈潜していると、己の感性に耳を傾けることになり、それゆえに鳥の鳴き声も聞こえてくる。

対照的に主観と客観と言われますが、ここで私が言う主観は自分勝手に物事を見るという意味ではなく、対象のない己を観る、沈潜するということ。沈潜が深まるほど感性も澄まされ、物事がよく見えてくるようになる。これが客観写生につながっていくのです。
つまり、主観を深めるほど、その深さの度合いに応じて客観へと跳躍する。水にペットボトルを深く沈めるほど、手を離すと高く飛び上がるのと同じ原理。最初に客観ありきではなく、客観に至るために、まず主観を深めるべきだというのが私の姿勢です。
俳句は修養であるというのがお分かりいただけるかと思います。俳句は禅や静坐と同じものです。



 菖蒲より菖蒲色なる雫落つ

 日傘揺れ綾瀬はるかのような女子

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