《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
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山羊と暮らせば三ヶ条
2016.07.02
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「山羊と暮らす三ヶ条」としてもよかったのですが、山羊と暮らしていけている条件をふと顧みると3つであることに気づきました。
はじめからそうしようと思っていたわけではなく、暮らしているうちに出てきた三つなので「山羊と暮らせば三ヶ条」。
1・かわいがる
2・甘やかさない
3・感心する
以上三つ。
1の「かわいがる」は当たり前ですが、だからといって好き放題させるわけではない。
2の「甘やかさない」と両立する。
だめなものは叱る、待て・下がれ・お手・おまわり・伏せをさせるのも、人と共存するには聞かなければいけないこともあることわかってもらうため。
かわいがるが甘やかさない。
腹を据えてかわいがり、腹を据えてしつける。要するに主体は自分にあるので引きずられないようにすること。
さらに3の「感心する」。
動物は人間より下にいるものではなく、人間をはるかに超えた存在です。
動物がそばにいる意味というのは人間の価値観を超えたものをもたらしてくれるという点に尽きるので、ただむやみに母性本能をくすぐってもらうだけの存在ではない。実に深い存在感があり、それを見て取ればほおっと感心させられる。
賛美や尊敬というよりただ感心する、それだけ。
山羊飼いといっても私のほかには誰も言わないことでしょうが、腹を地面につけて山羊の反芻する姿は見事なものです。
自身を完全に委ねきっている。といってだらけきっているのでもなく、危険を察知すればすぐに反応する。
リラックスと緊張の切り替えが驚くほど速い。
いつも話している静坐や坐禅を長くやっている人、高僧と呼ばれる人たちといえども正直山羊の足元にも及びません。
私が人を師とする必要を感じないのは人間をはるかに超えているものがあるからです。
以前に書いた子どものころウルトラマンが好きだった理由も山羊と同じ。
宇宙からやって来ることで地球の価値観が絶対でないことを知らしめてくれるから。
人間の価値観は人間にしか通じない狭いものであることを教えてくれる。
それを神や仏と言うことはできるでしょうが、大方は人間の価値観を強めるために使われているだけになってしまっています。
山羊に感心しているとそういうことが伝わるのでしょうか。
1と2だけでは生じないものが生じてくるように思えます。
三ヶ条は本当は山羊だけの話だけでなく、人にも同じように適用できるでしょう。
教育業界を離れてずいぶん年月が経ちましたが、教育もこういうことだろうと。
そのころに山羊を飼っていればいくらか関わり方も変わっていたような気もします。
先日、めずらしく山羊を飼いたいという方のお宅へお邪魔してきました。
家族には山羊を飼いたいということは黙っているのだと。家庭内でうまくいっていないと思っていることがあり、言えば反対されるだろうと。
なのでいきなり見せるとどうなるかと思って連れて行ったのでした。
奥さんが帰ってきて案の定不機嫌に、というより元から不機嫌。
人間だけで暮らしていると、ふと違和感を感じてしまう繊細な人でない限りは人間の価値観だけに生きてしまう。
家庭内は人間の価値観だけに支配される。
それがのほほんとした山羊がいることで、人間の価値観から生命の価値観というべきものに意識がシフトさせられる。
癒されるというのはそういうことでしょう。
人生ばかりが大事だと思っていたのが、「人」の枠がはずれて「生」という大海を垣間見る。
これまで強固にしてきた観念はなかなかはずれないので、一時的な限定された視野でしかないもしれませんがシフトする感覚が大切。
山羊がいると家庭にゆとりある変化が生まれる可能性はあるでしょう。
感心するというより感心させられる。
本でも音楽でも自然の中でもそうさせてくれるし、感心させてくれるからそれらを享受するようなものです。
俳句を詠むのも感心させられたものを表現しているだけかもしれません。
表現するとまた、感心のセンサーが伸びていく。
文化的なものはやはり一般的には一部の人にしか好まれず、都会にいる人は自然の中にもそうそう出かけられない。
家に完全なる自然な存在がドンと居座っていることは感心させられる存在が常にあるということ。
三ヶ条を導き出してくれた山羊のうしおに感謝します。
それにしてもアホっぽい。偉大なるおとぼけ。
お互いお気に入りの椅子なので椅子取りゲームになる。
山羊と椅子取り合っておる梅雨籠
