《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
-
映画「奇蹟がくれた数式」
2016.10.25
-
MOVIX京都で鑑賞。
インドではアインシュタインに並ぶ天才として有名だというラマヌジャン。
時は第一次世界大戦の前後。
貧しく高等教育を受けていない彼が次々と数学の難問を解き、イギリスに招かれる。
見どころはいくつもあるのだが、天才的な直感で解答する彼に、彼をイギリスに呼び、共同研究をするイギリス人ハーディはその証明を強く求める。
証明なしには学会では認められないからだと。しかし、ラマヌジャンは証明をする必要性をとんと感じない。
正しいということをわかっていてなぜ証明する必要があるのか。
横にそれるが、私は俳句を詠み、ネット上に上げることもある。
そこで誰かから句を修正したほうがいいという意見が出ることがある。
なるほどと思えば従うが、定石とは異なっても意図した表現であるならそれを説明する。
しかし、説明を求められれば求められるほどつまらなく感じ、かつ相手に理解されることもないこともわかる。
俳句はそれ自体で完結しており、説明は無粋なもの。本来は必要がない。
私は数学にはほとんど縁がないが、ラマヌジャンは数学を理解しない妻に「絵のようなもの」だと語る。絵を言葉を尽くして説明することは無意味だ。
俳句もまた数学の解のようなものかもしれない。
証明は説明であり、分析である。
分析はどこまで行っても直感がもたらす美をもたらすことはない。分析するほどに美から離れていってしまう。
三十代という若さで亡くなったラマヌジャンだが、イギリスに持って行ったノートの内容は、学者をして「研究するのに一生かかる」と言わしめる。
さらにもう一冊取り出し「一生×2」と。
人の一生は長く生きれば多くのことができるというわけではなさそうだ。
密度は人それぞれで違っている。
年を取るほど早く年月が流れるという話はよく聞くが、私は一概にそうは言えないと言ってきた。
ローマの哲人セネカも「よく生きれば人生は十分に長い」と言う。
子ども時代はどれも出会う物事が新しいので情報処理が活発となり、年を取れば適当にショートカットできるので脳をあまり使わなくてよくなる。
だから短く感じるのだという説がある。ショートカットは便利だが、それだけでは物事をよく味わうことはできない。
瞬間をよく味わい、噛みしめながら生きていれば時間は止まっているようにさえ思われる。
おそらく心理的には時間は存在しない。
東洋の直観(直感)、西洋の分析を象徴的に体現するラマヌジャンとハーディ。
本来はどちらも必要なもの。お互いが人種や文化の違いを感じながらも歩み寄ろうとする。直
観と分析が正しく発揮されること、これは学者だけの問題ではなく、我々が生きる上で最重要なことである。
深く感動させてくれた映画。