《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
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清々し神も仏もなき焼野
2017.03.14
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春の闇なき都会アニミズム消ゆ
この身こそ自然の極み青き踏む
清々し神も仏もなき焼野
角川書店の『俳句の海に潜る』を読む。
宗教学者の中沢新一と俳人の小沢實が旅をしながらの対談。
中沢は、短歌は貴族のもので俳句はそれとは一線を画し、村人へ、田舎へと目を向けるという趣旨のことを言う。
権力に対抗すべきものであったのかもしれない。
中沢の概念であるアースダイバーは俳句にこそあると言うのだ。
俳句がすべてそうだというわけではないが、水平でなく垂直に、つまり地球に潜る。芭
蕉も奥の細道という辺境に向かったのはそういうところからだろうと。
季語を立てるというのは人間を中心に見ない、動植物、自然を中心にする。
短歌は恋を得意とするが俳句はそうではないのは中心とするところが違うからであろう。
私が俳句を続けているのもそこにある。
人生より生のほうが深くて広い。そ
こにこそアクセスすべきだという思いがある。
だからこそ山羊を飼っている。
郷土の俳人である飯田蛇笏こそアースダイバーであると。
最終的にアニミズムに行きつき、小沢が中沢にアニミズムの句を10句選んでほしいと言われる。
そこで選んだ蛇笏の一句が
採る茄子の手籠にきゆァとなきにけり
金子兜太の
おおかみに蛍が一つついていた
は縄文の感覚だと。
虚子の
凍蝶の己が魂追うて飛ぶ
は身と魂が分離しているという点で、近代の発想だと断じる。
いい句だが古代の発想ではないと。
単純に蛇笏や兜太には泥臭さがあるが、虚子にはないと言いたかったのだろう。
スマートなカラヤンの音楽が近代に受け入れられたのと近いものがあるかもしれない。
先日詠んだ句の陸沈は、そういえばまさにアースダイバーだと思った次第。