《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
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霊的、スピリチュアルなもののとらえ方
2017.07.29
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コンビニでよく本を買う。
本のスペースは狭いので、現代人の欲望に合わせて選びに選んだものが置かれているから。
その一つ『成功している人は、なぜ神社に行くのか?』を読んでみた。
出版社は飛ぶ鳥を落とす勢いのサンマーク出版。
片づけ本や開脚本、1日1食などテーマを絞って出版し、宣伝も上手い。
著者は霊能者とかで龍神が部屋にやってきたやら、百済観音が賽銭を500円要求してきたやらと、かなり適当なのでその辺りは読み飛ばしてもいいだろう。
集合無意識とのアクセスについてはとくに目新しいものではないがよくわかる話。
ちなみに、私は集合無意識にはアクセスしないので一人で行動することが多い。
何を成功と思うかは人によって違うが、私の場合は人を雇わず、雇われず、自分のペースで生きていく自由があることと思っているのでそういう意味では成功している。
いわゆる世に言われる大金持ちになったり、社会的な出世とは異なっている。もしそれを望めばそうなるだろうが。
この本に書いてある内容云々ではなく、これからは私の考えること。
本書の問いは、心理学で記述できることだろう。
つまり、スピリチュアル、霊的な論理をもってこなくてもよい。
しかしすべて心理学でやってしまうと、クオリア、つまりふくらみの質感が感じられなくなる。平たく言えば味気ない。
神社仏閣で手を合わせる。落ち着きのない現代人にとって自らにとどまる貴重な瞬間の機会を与えてくれる。そうすることで感性は澄まされ、開かれていく。よい流れを見つけやすくなるだろう、それだけのこと。
講演が成功するために、会議室の4隅に手を合わせておくというのが本書に書かれてあるが、みな同じ理屈。
私は仏像が好きなので寺の方によく行ってきたが、神社もそれなりに参拝してきた。
この本では年に2,3回以上とあるがそれよりはずっと多いだろう。
知らない町に行ったとき、ふと車を走らせてよさそうだと思った神社に立ち寄ってご挨拶するというのはよくある。
霊的に言えば呼び止められたと言う人もいるだろう。
神社仏閣がすべてよい空気ではないし、自分とは合わないところもある。
結界を張られているように感じた神社もある。
おそらくとくに神社は基本は自然の中にあり、自然そのものがご神体。空間だらけ。
お寺の境内もそう。大切なのは空間。都会のぎゅうぎゅうした密度の高いところでは気が通らない。
空間があればそこになにかが訪れる。自我でいっぱいの心には自我以外のものは入る余地がないが、空間で満たされると神の息吹に満たされる。
つねに何かに守られている意識が昔からあるが、それは自我は主張するものではなく、現実社会において用いられるべきものだという認識があるからだろう。
朝には祝詞、般若心経、静坐の辞の3つを唱え、床の間には、小さな神棚、仏像の写真、静坐像、鏡、刀剣、水晶がある。滝や山羊の本も。
つまり、あえて神社仏閣に出向かなくとも毎朝ご挨拶はさせていただいているということになるわけだ。
生活を丁寧にという言葉が女性の間でよく聞かれたが、つまり一つ一つを神仏に向き合っているように向き合うということになるだろう。
そうは言ってもいきなりは難しいので、目に見える神社仏閣を訪れてその余波を生活にもたらすというようにすると無理なく行える。
霊的、スピリチュアルな物言いを好まないのは、そういう人たちは夢見る目をしているからであり、まっすぐに世界を見ようとはしないからである。
ただし完全にそれらを排除してしまうとロマンがなくなり、世界にふくらみがなくなってしまう。おとぎ話、民話が昔の人の世迷言、迷信だというように。
心理学的に見るより、霊的に見るほうが世界は豊かになる。
しかし、後者の存在を信じ込み、前者をかろんじると世界から遊離してしまう。
霊的な事柄を吹聴するのではなく、ユーモアであるように捉えること。平たく言えば、オカルト雑誌「ムー」を本気で信じてはいけないよと、楽しんで読むとそれはそれでおもしろい。
そういうあり方となれば、真実はとてもやさしいものとして顕現してくると私は感じている。