《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
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Toshi『洗脳』(講談社)を読む
2018.03.08
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言わずと知れたロックバンドXJAPANのボーカルが洗脳されていた12年間を綴ったもの。
自己啓発セミナーにはまってしまうのはよくある話です。
ただ、妻がそのセミナーの主宰の愛人であり、暴力と恐怖で支配していたところが強烈です。
私自身そういうセミナーに会社の研修と称して2、3日缶詰状態で連れて行かれたことがあるからです。
泣いたり怒鳴ったり、感情の起伏を激しくすることで自分の縛りを解き放つというのがいちおうの目的。
その解放された、つまり無防備なところに教義を刷り込むことでそれが絶対的に正しいと信じ込むようになっていく。
私はわりとそういうことに昔から免疫があるので影響を受けることはありませんでしたが、一緒に行った同僚は相当感化されて何度も参加しておりました。
会社の社長がはまっていて一回は半ば参加する義務があったのですが、二回目からは個人の自由でした。
ただ、洗脳というのは広くとらえると、例外なく誰もが洗脳されているとも言えます。
この世に適応しているという時点で洗脳状態だと言うこともできるわけです。
なぜなら、洗脳とは一種の変性意識状態であり、ある特定の意識に強く固定されている状態をそう呼ぶからです。
私が霊や超能力やUFOといったトンデモをくだらないとしてはもったいないというのもそこにあります。トンデモであればあるほど意識を現状の固定されたところからシフトできるから。要するに、さまざまな意識にシフトすることで固定化を防ぐことができる。
自我というのは固定されやすいものだから、いろんな経験をしたほうがいい。
田舎でその土地から一歩も出ずに生涯を終える人は、かたくなに迷信を信じ込んでいることがありますが意識が固定化されているからです。
山羊を家で飼えないと思っている人は、意識が固定化されてそう信じ込んでいる。
弁護士のあとがきに「松本サリン事件発生から二十年目の日に」とあります。
オウム真理教の裁判はすべて終了しましたが、国民がオウムの何かがわかったのかというとまったく理解は進んでいない。
社会的に裁判が終了したというだけ。洗脳って怖いねという感情だけでしょう。
私は事件を起こす前に麻原彰晃にも会っています。ドイツで事件は見ましたが、話したことのある幹部が捕まっている。
TOSHIさんはMASAYAという主宰の教義についてはあまり書いていませんが、「本質」という言葉と「自我」がキーワードになっていると見て取れる。この世は間違っていて、本質を知るMASAYAこそが絶対的に正しい、そして自分の自我はあまりにも汚れていて本質に向かうために汚れを取らなければならない。MASAYAという本質を体現している者に奉仕することで自分も本質的な生き方ができる、そういう思考回路になる。
飴と鞭で、感動を味わうのと暴力による服従を交差に経験させることで思考を止めてしまう。これはオウムやナチスを見てもわかるように、洗脳のスタンダード。
ただし、洗脳は洗脳されたい者が洗脳されるということを知っておく必要があります。
騙されるものは騙されたい、というとお叱りを受けるかもしれませんが、根底にはやはり欲がある。詐欺事件で訴える人がいます。たしかに騙そうという人間は悪いですが、騙される人も儲かると思うから騙されるわけです。
Toshiさんは若くして成功し、大金が入ってくるようになると家族ともうまくいかなくなり、信じられる人がいなくなる。有名になればなるほど賞賛が虚ろに見えてもくる。その隙に妻とMASAYAとがすっと入り込んできたわけですが、救ってほしいと思っていたからすっぽりはまってしまった。
人間は弱い、だれしも洗脳される可能性はあるということからこの本を執筆したのでしょう。しかし、レビューを見るとこの本を鵜呑みにして「MASAYAは極悪人、Toshiさんかわいそう」という単純な怒りの感想が多く目につきます。それもまた洗脳、つまり意識の固定化だということに気づいていない。
「本質」、オウムで言えば「真理」と「自我」この2つはたしかにキーワードです。
本質とは何か、自我とは何か、その根源的な問いをしっかり自分の目でたしかめていくこと。問いが展開されていくことで意識の固定化もまたほぐれていく。これが本質だ、と絶対的な答えを信じてはいけない。すぐに信じるのは依存する心があるから。依存度が低いほど信じなくなる、意識の固定化は避けられます。
「自我」というのもまた、すぐに自我が強いのはよくないと善悪で判断してしまいますが、判断はせずに自我とは何かを見ていくと善悪の問題ではないことがわかってきます。自我の存在する理由が明らかになると自我を抑えようというようなことはしなくなります。
信じ込むほど人は強くなれた気がします。
何かを排除する、敵を作ると強くなれる気がする。
しかしその強さは意識の固定化がもたらしたものにすぎません。
信念は称賛されますが、信念なしに柔軟に生きられるほうが重要ではないでしょうか。
柳の枝に雪折れなし。
日常から宇宙へ抽象度を上げたり下げたりして、意識を自由にシフトさせられるようなありようを探っていきたいものです。
しかしこういうことは一般の人にとってはまた難しいことを言ってとか、面倒だからと言って見向きもされません。愛だ平和だと叫ぶほうが簡単だからです。
TOSHIさんも元々スピリチュアルなものに興味があったと言っていますが、自己逃避のスピリチュアルではなく、ふわふわしたものとしたものではなしに、しっかりスピリチュアルなものに切り入っていけばいいのでしょう。排除せず受け入れず、自分の今ある世界を自分のものとして味わっていく、このほかになすべきことを私は知りませんし、ただそれだけを愚直にまい進してきたように思います。
付け加えておくと、洗脳する者もまた洗脳されています。