《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
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大阪静坐会終了ー座ることを楽しむ
2018.05.06
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ひさしぶりの大阪静坐会。
大阪は第一日曜日の14時から15時10分まで、東三国の常光寺にて。
参加費は500円。お茶菓子つき。
30分の第一坐の後、10分休憩。第二坐も同じく30分。
その後で軽く茶話会。
静坐会の様子を撮りたかったのですが、人を撮るのは気が引けたので私を撮ってもらう。
撮ってくださった方は、夏の全国から来られる実習会で、私の座り姿がいちばんきれいと言ってくださる。正しい姿勢というものに答えは出ませんが、体幹が重要であることは間違いないでしょう。
私は鍛えようと思ったことは一度もありませんが、好きでやっていることがすべて相乗効果をもたらしてくれているような気はします。
真向法、乗馬、一本歯下駄、仕事で本の入った段ボールを運ぶことなど。
劇団ひとりならぬ、修道院ひとりなのかもですがすべて好きでやっていること。
静坐をされている方で、その方は坐禅もされているのですが、座っている最中に妄想が止まらないと言います。
妄想がどうして湧くのかを考えてみると、とても簡単な理由であることがわかります。
それは、座っている状態が縛られている状態だと思っているからです。
自分が好きで座っているのに縛られているとはどういうことか。
おそらく、その方は今感じている苦しみから逃れたい、でき得れば悟りを開きたいと思っているのでしょう。
つまり、現状から逃れたい。逃れたいが身体は座っていなければならない。だから意識だけは今、ここから逃れようと次々と妄想を生み出してくるという構造になっている。
座ること自体が目的ではなく、苦から逃れることや悟りを開くことが目的になってしまっているので当然でしょう。
とにかく座ることを楽しむ。
静坐の創始者である岡田虎二郎も、道元禅師の禅はよかったとして「静坐は安楽の法門である」と座禅になぞらえて述べました。
身体がぶれなくなってくると、逃れようという思いもなくなってくる。
静坐の本義とは主体は自分である、ということに尽きるでしょう。
主体が自分であればただ座ることができるようになる。
ただ座る、これは自己を深く味わうもっともシンプルな方法。
釈迦も菩提樹の下で座って目覚めたとされます。伝えたかったのはただ座ることの妙味だけだったのではないかと思えます。説法は方便であり、最終的には座ること。
ヨガもあのアクロバティックな体操はみな、しっかり座れるためだと言います。
特別な場所も用意も何もいらない。
覚えなければならない面倒なこともない。
ていねいに暮らす、自分を大切にするといったことがよく言われますが、座ることはそれらを余すところなく行えるものと言ってもいいでしょう。
毎朝、毎夕座っていると、静坐それ自身が自らを調えるように仕向けてくれます。
座禅やヨガではなく静坐に取り組んでいるのは、組織的なものもなく、アクロバティックな要素もなく、覚えることもほとんどなく、正座に近い形なので一般にもっとも敷居の低いものだと思われたからです。
自分に合ったものなら何でもいいでしょう。
とにかく座ることが苦行ではなく、楽しいかもと思えたらそれで。