《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
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『方丈記』の方丈の庵
2012.02.28
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鴨長明が『方丈記』を書いて今年で1200年になるという。
あまりにも有名な「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」で始まる文章は、岩波文庫でも30ページほど。
ぺらぺらですぐに読めてしまう。
当時の大災害の様子が臨場感をもって書かれており、大地震(おおなゐ)についても詳しい。
昨年からそのせいもあって注目されている。
長明は下鴨神社の神職の家に生まれているから、同神社の摂社河合神社に方丈の庵が復元されている。
公開中なので行ってみたが、あまり関心をもたれているとは言い難い。
方丈とは一丈四方のことなので、四畳半ほどのスペースが彼の最終的な住処となる。
家のつくりや配置などこれも詳細に書かれているので、復元が可能となった。
出世もできず、住処もどんどん小さくなり、生来の気質も相俟って自らを隠者となし、それをよしとしようとした。
ある人は彼をナルシストと言い、中途半端な悟りと言い、深い思想を見出すことはできないと言う。
否定はしない。ただ、それで何事かを言ったことになるのだろうか。
「事を知り世を知れれば、願はず、わしらず(あくせくせず)。たゞしづかなるを望とし、うれへ無きを楽しみとす。」と言い、「鳥にあらざれば其の心を知らず。閑居の気味も又同じ。住まずして誰かさとらむ。」と。
やってみない人間に何がわかろうかと言うのだ。
実は、つい最近全文を読んだ。他人とは思えないほどだ。
「いかゞ奴婢とするならば、若しなすべき事あれば、すなはちおのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人を従へ、人をかへりみるよりやすし。」と、こんなところまで見識を一にする。
先日の日記で、できるだけ人を雇わないと書いたことに呼応して面白くさえある。
西行や芭蕉もよい。
ただ長明は旅の人ではない。
旅から旅へゆくのもよいが、方丈で静かに暇を楽しむ。ごまかすのではなく。
仏教くささがなくもないが、気ままに念仏を唱えたりと、さほど信仰に凝り固まっているとも思われぬ。
深さなどここではどうでもよい。
自らをありのままの状態にさせるように自らをあらしめる。
偶然を必然へと変容させる、そういう在り方を見るべきであろう。
