《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
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読書報魂
2012.10.02
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本日は出張買取に伺ったのでカフェはお休み。
基本的には文学系が多かったが、そのほかのところで、私の子ども時代の読書遍歴の飛躍点となった本があったので驚いた。
転機となる本がすべてあった。
まずは小学3年のときに読破した江戸川乱歩の少年探偵シリーズ(ポプラ社)。
お子さんのものであったらしい。
本格的な初の読書体験で、50冊ほど読み通して本が身近なものとなった。
次に中学1年のときに読んだ『ファウスト博士の超人覚醒法』(ムー)。
怪しげな内容ではあったが、エンターテイメントであると同時に、自己と対峙することを教えてくれた。
読んだ本のことは大体忘れてしまうのだが、「最高の導師は苦しみである。」という言葉は今でも覚えている。
しばらくこの言葉を咀嚼しながら過ごしていた。
心から離れなかったのだ。
そして、それから間もない中学2年のときに出会ったクリシュナムルティの『自我の終焉』(篠崎書林)。
『ファウスト博士の~』がムーが出している本なので、エンターテイメント性は多分にあったのに比べ、こちらでは決定的に自己と対峙することの何であるかを徹底して突きつけられた。
自我の芽生えが起こり、その自我ゆえに苦しめられていたころに白黒の表紙が飛び込んできた。
大阪の紀伊国屋書店の精神世界のコーナーにて。
自我が芽生えてもう終焉(笑)。
まあ、今となっては自我はこの世にある限り、終焉はしないと説明できるようにはなった。
厳密に言うならば、自我の終焉ではなく、自我に囚われることの終焉。
自我(私であるという意識)は、他者が存在する限り自然発生する。
要するに、自我は生活を営むための道具であるということになる。
では、その自我は誰が使っているのか、という問いが必ず出るが、その問いは正しくない。
自然発生した道具という認識が自我を肥大や暴走させることなく、あるべきところに収める。
上記3冊はばらばらのようで、推理ものというエンターテイメントから、エンターテイメント性を含んだ自己認識を促す書、そして純粋に認識の書へと移行する。
曖昧模糊とした自我から意識され出して苦しむ自我へという精神状態に符合する。
その時々の精神状態に即してそれにぴったりと合う本に出会うことができた。
啐啄同時。何かに導かれてきたとしか思えないほどである。
先日、古本屋にぴったりだと台湾土産に写真のTシャツをいただいたので、これを着て作業をした。
「読書報国」。「読書報告」ではない。
日本は戦争に負けてからはぴたっと報国の文字は右翼を除いて消え去った。
こちらでは前時代的な言葉でも、彼の国では今も生きている。
国には結果的に報いることになるかもしれないが、あくまでそれは結果である。
本来は「読書報魂」だろう。誰のためでもない。さらには実は己のためでもない。
魂とは自我ではない。「場」と言ってもいいだろう。
場を清める、より心地よいものにするのに読書は助けになってくれる。
