《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
-
速読よりも精読を
2013.01.13
-
今朝の毎日新聞の書評に南木佳士自選エッセイ集「猫の領分」が取り上げられていた。
この本自体は読んでいないのだが、南木さんは作家であると同時に信州の医者でもある。
信州のお婆さんの最期の見事さを描いている。
老女の描写の見事さは小説「阿弥陀堂だより」でもおうめ婆さんで十分にわかる。
映画にもなり、北林谷栄の演技も印象深い。
このエッセイに描かれたエピソードを歌にしてみた。
「しっかりしてぇ」連呼する嫁「うるせー」の一言放ち息絶ゆる婆
「我すでに死臭のありや秋の蠅」一句を残し息絶ゆる婆
こういう話を読んで速読について思った。
本を1日に何冊も読めるという人がいる。
結構な話に思えるが、たとえばテレビのコメンテーターや論客などの知識人と言われる人の話は上手でおもしろいことも多いが、その人間性に深みを感じることは甚だ少ない。ただ頭がいいだけ。
たくさん本を読んではいるだろう。しかし、じっくり向き合っているだろうか。
もちろん、単なる情報取得なら速読でもいいだろう。しかしこの南木さんの本のような滋味溢れる文章に対して、速読など意味があるのだろうか。
内容を理解しているのと内容に沈潜しているのとはまったく異なる。
速読とは音楽を早送りで聴いているようなもの。
どんな音楽かはわかる。だが感銘を受けることはない。
文章もまた言葉による旋律。だとすれば、あえて遅く読む必要はないが、早送りすべきではないのではないか。
学生時代、国語の現代文の試験問題の文章に感動したことなどあるだろうか。
試験は時間内に解かなければならず、そのため速く読んで問題に取り掛からねばならない。たとえ文章が文豪の名文であったとしても、上っ面をなぞるだけでは感動しない。
「主人公の気持ちを述べよ。」という設題には正しく答えられる。だからといって主人公を理解していることにはならないのだ。
「そんなにゆったり本を読んでいる暇はないよ。」と言うかもしれない。
しかし、私は断言する。それはあなたの人生が間違っているのだ。
本当にそんなにすべきことが山ほどあるのか。それは絶対にしなければならないことだろうか。
優先順位が間違っている。ほとんどはどうでもいい思考、おしゃべり、争いに時間を使い、精神を鈍らせて気晴らしを行っている。
病気をして気づく人も多い。人生に余計なものを詰め込みすぎているよと病気がストップをかけてくれたのだ。
古本屋として、読んでから売りに出そうと思う本がある。
しかし読み進めるにつれて、どうしても線を引きたくなる箇所に出会ってしまうことがある。
線を引けば売り物にはならない。それでも線を引くことでより味わいたいと抗し難い力が生じる。
磁力に引きつけられるように私の手は線を引いてしまう。
1行でもそういう箇所に出会ったなら、憎たらしくもあれその本とはよい出会いをしたのだ。
朗読はさらに心の襞に染み込ませることができる。
最低の速度で音楽を奏でる、他者のみならず何より自分自身に聴かせる。
速読とは対極にある読み方。
現代人はPCやスマホでネットサーフィンをしたりと文字に触れる機会は以前より増えているかもしれない。
しかし、その読み方しかできなくなっている傾向が多分にあるのではないか。
速読を含め、効率化してもよいものとそうでないものを自らに問い、時代に抗うことになっても自らの旋律に従う、そういう在り方を意識すべきである。