《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
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縁と意の交点を求める
2013.07.30
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難しい(と思われる)話をします。
何かをすればするほど、苦しみが増す人がいます。
違和感を感じながら、次々と新しいことに目を向けて飛び込んでみても、違和感が減じない人がいます。
それらは、環境に問題があるわけではなく、自らの在り方が問題なので、環境をいくら変えてみても同じ問題を引きずっていくだけです。
それでは、正しい行為とは何か。
自分にとってですが、わかりやすい表現を思いついたので紹介します。
「縁」と「意」の交点くもりなき「観」で合わす焦点まことの標
短歌でコンパクトにまとめてみました。これを今から展開していきます。
「縁」を縦軸とし、「意」を横軸とし、その交点を「観」によって求める。
交点が解ですから、正しいという確信があるので、後はそれを進めていくだけになります。
図で説明できれば、わかりやすくスムーズなのですが。
人は何かを成そうとするとき、これまで関わってきたすべての「縁」のどれを使うかを選択します。
縁は人だけでなく、物や場所など、これまで生きて関わってきたすべてです。
縁がなければ、新たに作り出すこともあります。
たとえば、私自身を例に挙げると、古本屋になるにあたって、親がその職種にあったわけでもなく、知り合いがいたわけでもありません。客として古本屋に入り浸っていたわけでもありません。
ただ、本に関してはおそらく平均よりは読んできましたから、本についての知識はそれなりにありました。縁といえば、それだけです。
「縁」を選択するには、その前に「意」つまり、意志、おもいが先にあります。
私の場合は、一般的ではありませんが、原点である中学生のときに抱いた隠居願望に従い、現代で早く隠居に近い生活をするにはどうするか、そう考えたときに横軸の「意」が貫く「縁」が本を扱う古本屋でありました。
縁は薄いものではありましたが、本については扱える自信がありましたので、本との縁だけで曲りなりならできるだろうという確信めいたものはあったのです。
縁と意の正しい交点を見出すのは実はなかなか容易ではありません。
どこでも交わることはできますが、人に認められたいとか、単に刺激がほしいという「意」で何かをなせば、当然反動が来ます。
京都の古本屋はとくにかもしれませんが、後継ぎが多い。
当然、後継ぎであれば古本屋との「縁」はこれ以上ないほど強い。私にしたら羨ましいかぎりです。
しかし、本にまったく興味がなければどうでしょう。「意」がそのまま継げば楽そうだから、親がそう望むからといったものだけであれば、その交点は満足いくものではないでしょう。
そこで、「観」が重要になります。
「縁」と「意」の正しい交点を「観」によって焦点を合わせるのです。
「観」にくもりがなければ、焦点はおのずと合わさります。ぴたっと来るところが必ずあるものです。
では、「観」はどうすればくもりが取れるのか、という疑問が起きるかもしれません。
しかし、「どうすれば」に答えれば、ある種のセミナーや宗教となり、よりねじれが複雑になるだけです。
言い換えれば業を深める。
ちなみに、人脈を増やそうといった無意味な縁を作ろうと、異業種交流や様々な会に頻繁に出入りしている人を見かけますが、これも業を深めているだけと言えるでしょう。
怪しげな表現をあえてしますが、私にはそういった人たちが背負う人脈が生霊のようになっているように見えます。
縁と意の交点はいくらでもあります。
しかし、その人にとって正しい交点は一つしかありません。
「観」が磨かれれば焦点はおのずと合わさる。
もし、この意味が理解されれば、何をなすべきか、どうすればよいか、といった問いは出ないでしょう。
最後にもう一度。
「縁」と「意」の交点くもりなき「観」で合わす焦点まことの標
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今日は、遺品整理で行政書士さん立会いの下に本の買取をいたしました。
立会いは2回目となります。
普段関わりがなく、会社の登記をしたり、通信講座でよく見る程度の認識しかありませんが、相続の手続きもされるのですね。
蔵書も遺産ですから、古書店に依頼をして立会いもされるというわけです。