《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
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霞を食べる
2013.07.31
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「霞を食べているんですか。」と聞かれることがあるので、少し考えてみました。
あることに気がついたので述べてみたいと思います。
たしかに霞を食べているし、食べられる。
もちろん、霞だけを食べているわけではありませんが、霞も摂取されるものであり、重要な役割を担っている。
つねづね、私は「暇を愛でる」ということの大切さを述べてきました。
暇を恐れ、暇を潰すことに躍起になるのは愚の骨頂であり、暇を愛でる以上の贅沢はないということですが、長くなるので、詳しくはここでは申しません。
さて、「霞」と「暇」、この2つの漢字を比べてみて、気がつきませんでしょうか。
雨かんむりと日偏を除けば同じ「カ(変換できないのでカタカナ)」で共通しています。
『新漢語林』によれば、これは未加工の玉を意味するそうです。
もう一つの解釈では、上から布や皮を垂らして中の物を被うさまを表す。
どちらにせよ、未加工の玉はまだ真の玉になっていない隠れた状態とも取れます。
よって、『新漢語林』では、「かくれた価値をもつひまな時間の意味」とありました。
まさに我が意を得たり。暇は無意味な時間と捉えられがちですが、これに気がついた人とそうでない人は、おそらく会話が成り立たないほどの、それくらい大きな意識の違いが生じます。
一定の空間は物質で占められてしまえば、それ以上入る余地はなくなります。
暇を潰すというのは、私の非常に嫌いな言葉で、それは無垢な空間を埋めてしまうからです。
この空間こそ、霞だと言えるでしょう。
何もないように見えて、エネルギーに満ちている状態。
このエネルギーに満たされて摂取している状態が「暇を愛でる」です。
電気や原子力といったエネルギー問題には多くの人が関心を持っていますが、自らの魂が摂取するエネルギーの質に関心を持っている人はどれくらいいるでしょうか。
暇だと感じれば、無意識にテレビをつけ、スマホを操作し、雑誌を読んだりすること、これらは繊細な感性を養うでしょうか。
「何もしない」ということがどいうことか、聞いたことのある人は稀だと思われます。
で、これは本来ならば決して不快なことではなく、快とは言いませんが、悪くない居心地です。
不快なのは、暇な状態に陥ったとき、自分を意識してしまうことによります。その自分が無価値であると感じ、それに耐えられなくなるから、刺激物で自らを鈍くしてしまうのです。
間違いなく誤解を生じさせるのですが、「暇を愛でる」とは=「瞑想」のことにほかなりません。
瞑想と聞くと、人それぞれのイメージがあり、かつ意味ありげなものとして捉えられてしまう。
これも前回と同じですが、どうすれば暇を愛でられるか、瞑想はどうやってするのか、こういった問いは間違っています。これに答えてくれる人はねじれを大きくするだけです。
理解があれば、それはそこにあります。
最後に、暇や霞のほかに、共通する「カ」のつく漢字は少ないですが、「仮」があります。
仮の旧字体は反ではなく、「カ」です。まだ真になっておらず、真が隠れているので「仮」。
まだ何にもならないものにエネルギーは宿っています。
暇を愛でれば霞を食べることになる。よって、何もしないということは決して消極的な態度ではないのです。
霞の美味しさがわかる、内面の豊かさとはこのことに尽きると私は思っています。