《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
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失言と正直
2013.08.06
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閣僚の失言が問題となっていて、それを糾弾する人がずいぶんいます。
失言を謗る人らよ汝らに口には出さぬ失言なきや
と詠んでみたくなるほど、政治家となると自分の日常の鬱憤を晴らすように非難の声を上げる。
ナチスにせよ、従軍慰安婦にせよ、失言ではありましょう。
しかし、失言しない政治家は正しい人であるのでしょうか。
本音と建前というのがあり、建前だけで穏便に済ませて任期を終えた人が失言する人より立派なのでしょうか。
建前だけの人は問題は起こさないかもしれませんが、賞賛はされない。
本音で語る、ざっくばらんな人柄の政治家に人気は集まるものです。
失言した人たちはそうであったでしょう。
彼らは正直であったのです。ただ、品がないというだけで。
歪みがあったとしても歪みに正直に発言した。だから失言となった。
歪みや偏見のない人がはたしているでしょうか。
失言者を謗る人たちの心を開いてみれば、発言されない失言でいっぱいなのではないでしょうか。
そもそも、政治家をあげつらい、社会の不満ばかり言う人たちは自分を省みるという姿勢は見られません。省みれば、あげつらっている暇などないからです。
「日本はこれからどうなると思いますか?」とあたかも自分は憂えているのだという顔をして、聞いてくることもあります。
政治は誰かが得して誰かが損をする、その中でバランスを取るもの。
誰もが納得することなどない。
なので、「とくに心配していません。」と答えて政治の話はなるだけ避けるようにします。
関心は持っても、対外的なことより憂いを語る人の内面の修復が先だということが見えるからです。
昔もよかったわけでも悪かったわけでもない。
ある人にとってはよかった面があり、よくなかった面がある。
万人に共通した善悪はない。
政治家の質も変わらない。人間の質がそもそも変わっていないのだから、政治家だけを取り上げるのもおかしな話です。
社会に関心を持ちつつも、何かのせいにせず、自分がどうあるかを軸とする。
正直にあるとはそういうことではないかと思います。
ところで、中学時代に教師がナチスに触れ、独裁者がよい人であれば、それはもっともよい政治形態だと聞かされたことがあります。
権力を持ちたがり、万人のことを思いやらないから悪いのだと。
しかし、それは間違っていると断言します。
絶対善のリーダーがいて大衆の意識は変わらずという形態は歪なものでしょう。
万人が自らに立脚していることが前提です。リーダーを熱狂的に支持する人間も、自らを省みない人間も、正しいあり方ではないので、正しくリーダーを選ぶことはできないでしょう。
混乱した人間が選ぶリーダーはまた混乱しているものです。
全員が自らに立脚しており、その中で自然にリーダーが選出される、これがもっとも自然な形態でしょう。
であるなら、誰がリーダー、政治家に相応しいか、相応しくないかという議論は馬鹿げています。
失言をあげつらっている暇はありません。
自らのうちにある失言をまっすぐに見ていく正直さが醸成されないかぎり、何も変わりません。
自分を関わらせない発言は例外なく醜くなるものです。