《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
-
不祥事の対応
2013.11.01
-
先日、クロネコメール便にてはじめて起きたことを。
お客さまから商品が届かないとの連絡があり。これ自体はたまにあることです。
ご家族が代わりに受取られておられたり、宛先がわからず住所不明で返ってきたりといったところで、紛失はまずありません。
今回は、追跡調査でネットで検索をすると「投函完了」と記載されており、宛先担当の配達センターに問い合わせても配達をしたと事務員経由で連絡あり。先方が家族も受取っていないとのことで、2回目の確認をとりましたが、やはり投函したと言い、お宅のポストの形状も知らせてくれたので盗難の可能性もあるかなと。
ところが、昨日の昼に転居先不明で返送されてきました。
「投函完了」にも関わらず、返送されてきた不思議。
また問い合わせをしましたが、直に営業所につながらず、サービスセンターを通じて連絡するので、大変手間がかかる。しかも、この営業所は質がいいとは言えず、午前に連絡しても翌日、しかも配達のわかる人間ではなく、事務員にかけさせる。
サービスセンターの人間もまた、用件を伝えるのみで連絡をしたかどうかの確認を営業所にとらない。
埒が明かないので、センター長にようやくつないでもらい、メール便に保証はないものの、誤記によって損害を受けたので保証をしてもらうことにしました。先方は配達されなかったので同じ商品を別の店から購入手続きをしてしまったためです。
よく不祥事を起こした企業の対応がメディアで流されます。
事業がうまく行っているうちはいいのですが、こと問題が起きたときにどう対処するか。
これがマニュアルに記載されている問題なら大企業ほどスムーズに対処する。驚くほど的確に。
しかしながら、マニュアル以外のこととなると途端に機能が停止してしまう。どうしていいかわからないので、誰も考えようとしなくなる。そもそも企業が大きくなればなるほど、誰も責任を負わなくてもよくなります。目の前のことだけしていれば事後処理は知らんふり。公務員もまたそうです。責任を取るといっても税金が使われるだけのことですし。最悪クビでしょうが、退職金も支払われる。
古書店の大半は個人事業主です。業務の性質上、大規模展開の難しい業種ですから。
チェーン展開している新古書店はいわゆる古書店とは違い、アルバイトでも出版の新しい順に値付けをするので展開が可能になりました。いわゆる古書、江戸・明治・大正・昭和の本に関しては市場価値がわからないので、そういうところでは査定できない。また専門書も一般書もみな十把一絡げにします。
個人事業主と企業なら信用は企業のほうにあると思われがちですが、個人事業主なら、責任は無限に負うことになります。企業に例えれば有限会社ならぬ無限会社です。
会社は法で守られているがゆえに有限。個人はそうではありません。
よって、個人事業主のほうが責任があります。責任感に関しては、持つ人はどこにいても持っているでしょうが、少なくとも個人事業主は持たざるを得ないように仕向けられてはいます。
で、私自身はこれを至極当然でまっとうなことであると考えます。
企業のトップはトップといえども、何かあれば世間と会社の板ばさみになる。
結局は中間管理職と同じでしょう。世間の信用と会社(社員と社員からの信用)を守ることとを天秤にかけながら、「偽装と思われてもいたし方ありません。」というような歯切れの悪い言い方をすることになる。その心情はよくわかるので、鬼の首を取ったような世間に与したいともまた思いません。世間もまた批判を正義として強かったものが弱さを見せると、自分が強くなったような気がして、反撃不可能な無慈悲な攻撃をしますから。いじめの構造と同じです。
ただ、今回のように、当店はもちろん当店のお客さまが損害を受けた場合、大企業のように責任をなすりつけるわけにはいきません。
幸い上司にお伺いを立てるような立場ではないので、大企業相手でも通るか通らないかは別にして、保証してもらうところまでこぎつけました。当然の処置ですが、世間ではこれが通らないことが多い。金額の多寡はともかく、こういうことに関しては冷静に腹を立てて責任をとってもらう方向にもっていきます。責任感を感じさせることはできませんし、そうしようとも思いません。
それが個人事業主としての小店舗としての責任でしょうから。
ちなみに、クロネコヤマトも営業所によってまったく対応が異なります。今回のようなことははじめてで、問題はほとんど起こりません。
いつもお世話になっており、大変ありがたく利用させていただいています。
組織が大きくなればなるほど、個人で責任をもって臨機応変に対処する能力は希薄になる。
アマゾン、NTTといった企業、また公的機関などお世話になっていながら、マニュアルにない問題が起こると同じような対応に苦心してきましたので、強く実感していることです。
これはチャップリンの「モダン・タイムス」から変わらない組織というものの性質でしょう。
大きかろうと小さかろうとそれぞれに長所も短所もある。
大きくなければできないことがあるのと同時に、小さくなければできないこともまたあるものです。
話変わって。
昨日、高島屋で開催中の土門拳「昭和の子どもたち」展を見てきました。
新聞にこの記事が出ていて、ある人に土門拳の撮る子どもは躍動感があるという話をすると、記事は見ずに「今の子どもも昔の子どもも変わらない」と言って、自分の知り合いの写真家の写真集を見せてくれました。
現代の子どもが山で過ごしている写真集でしたが、これを見てなおさら身体の出来、使い方がまったく異なることをより強く感じました。腰の入り方が違う。貧しい時代の子どもの躍動感はすばらしい。またそれを見事に撮った土門のすごさ。
昔の子どもはよかったというつもりは毛頭ありません。ただ、その時代にしか撮れないものがある。
数年前に、土門の生まれた山形の酒田市にある土門拳記念館に行ってきました。
繊細でかつ無頼な写真たちに圧倒されましたが、今回もまた然り。何度か見てきましたが、炭鉱のるみえちゃんの瞳は一度見たら忘れられませんし、いつ見ても訴えかけてきます。
『風貌』や『古寺巡礼』『ヒロシマ』など、どれも傑作です。よろしければ、会期中に足を運んでみてください。
写真は「江東のこども 近藤勇と鞍馬天狗」。
