《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
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善悪の彼岸
2013.12.09
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映画「ハンナ・アーレント」が話題になっているようです。
一女性哲学者が映画化され、また、それが注目されることはそうあることではないでしょう。
当然、映画化するのですから、生涯机にかじりついて本を書いていました、というのでは映画になりません。映画は動の表現ですから。
そこで、哲学者といえども動、活動的な人、もしくはそのような時期があった人でなくてはなりません。
ハンナ・アーレントはハイデッガーに学び、ユダヤ人であることから自らも強制収容所に入れられ、脱出しアメリカへ亡命。アウシュビッツ輸送の責任者であるナチスの高官、アドルフ・アイヒマンがアルゼンチンで拘束されたことで、その裁判の傍聴記事を書く。
ユダヤ人ですから、当然ユダヤの人々は、彼女がアイヒマンが極悪非道な人物である様子を描いてくれるものだと思っていました。ところが、アーレントが目にしたアイヒマンは凡庸な官僚そのもの。ヒトラーからヒムラー、そしてアイヒマンと伝えられる命令を事務的に処理しただけだということがわかる。
これを彼女は「悪の凡庸さ」と呼び、絶対的な悪は思考を放棄した人間がもたらした結末だと結論付けます。
この場合の思考とは、自分自身との静かな対話。効率のよい事務処理能力の思考とは別物です。後者の思考能力が高いために官僚としてアイヒマンは成功したのでしょう。前者の思考は思索、沈思と言える類で、映画で表現するのは難しい。
しかし、この映画ではそれを試みており、映画という枠内において成功していると言えるでしょう。禅などに「静中動、動中静」という言葉がよく用いられますが、動の中に静、動でありながら静を表現する、そういう映画にしか私は関心がありません。単に動であるだけなら騒々しいだけです。
善と悪を描いていながら、そこから汲み取れるのは、善も悪も人間が決めているという一事にあります。アーレントはまた、ユダヤ人指導者もナチスに協力していたことが裁判を通じて明らかになったと述べました。ユダヤ人であるからアーレントが同朋を擁護しない論説を書くのはおかしい、としてユダヤ人の友人は彼女から離れていき、ユダヤ人でない人であっても、彼女を「ハンナ・アイヒマン」と呼び、ナチス擁護だと決め付けました。もちろん、アーレントがナチス党員であったハイデッガーと親密な仲であったという先入観もあったでしょうが、ナチスほど全世界誰もが悪と決め付けられる単純な対象はなく、それを非難しない者は人にあらずという前提があります。被害者=善というのは正しいようで、自分を居心地のよい集団にはめこみ、「力への欲求」から安心感を得たいという動機から生じています。
アーレントは「迫害者のモラルだけでなく、被害者のモラル」も崩壊していたと講義で主張します。
話は現代に戻りますが、先日、南アのマンデラ元大統領が亡くなりました。
彼がアパルトヘイト政策をなくそうとし、白人と話し合いが持てたのは、白人=悪と決め付けず、彼らにも黒人と変わらない人間性があると見て取ったからでしょう。
なぜ、「ハンナ・アーレント」のような映画が話題になるのか、その無意識のところでは善悪を決め付けようとする意識が表面化されてきているからかもしれません。
たとえば中国=悪、日本=善 といったナショナリズム、中国から見ればその逆。
人は宙ぶらりんの状態をよしとはしません。安心感を得たいがために、どこか-これは実在上の場所でも1つの観念でも-に所属しようとします。それが国家であったり、日本人であったり、ユダヤ人であったり、1つの神であったり、対象はなんでもよい。そこから自分を守ることができ、逆なるものを攻撃することができる。
ゆえに私は、権力側にも大絶叫のデモにも与しません。どちらも互いの立場を慮ることができていないためです。権力の無い者は、権力側を、貧しいものは金持ちを搾取する者とし、鬱憤をぶちまける。しかし、どこかの立場に身をおいて違う立場を攻撃するのは、ステレオタイプであり、モラルが欠如しているというほかありません。
家族をナチスに殺されたユダヤ人はそうせざるを得なかったでしょう。
立場を決めなければ、憎しみをどこにもやれず、報復することができないから。
昨日食べた「蒟蒻畑」、これものどに詰まらせた子どもを死に追いやったのは企業責任だとせざるを得なかった親もまた、どこかを悪としなければ気持ちのやり場がなかったのでしょう。
善悪を決めたがるのは人の性。しかし、それはあくまでも人が決めている。
人の不安定な居心地の悪さがそうさせる。ただ好き嫌いと言っても構わないようなことでも、善悪とすると自分に絶対的な正しさがあるという思い込みによる安定感が得られる。
西洋の哲学の話なので、分析一辺倒になりがちですが、二項対立としない東洋の思想もまた省みられるべきでしょう。
善は悪と離れてはなく、その逆もまた然り。
この映画を皮切りに、女性思想家ものが映画化されていってほしいと個人的には思います。
女性思想家はアクティブな人が多いので、できないことはないでしょう。シモーヌ・ヴェイユや日本では神谷美恵子さんなど、見てみたいですね。
撮ったのも女性の映画監督マルガレーテ・フォン・トロッタ。「ローザ・ルクセンブルク」をすでに撮っているので、こういう路線もよいのでは。
それから女優さんがみな美しい。
アーレントを演じるバルバラ・スコヴァ、若き日を演じる女優さんもまた。友人のメアリー、そして何よりアーレントの秘書役ロッテを演じたユリア・イェンチ。彼女は、これもナチスのレジスタントの映画「白バラの祈り」のゾフィー・ショルを演じ、この映画も本作に劣らず見事な出来。
映画は一昨日見まして、昨日西京区の松尾大社付近のお宅へ出張いたしました。
1年に1回あるかという哲学・思想・美術書が中心で3回往復。その中に、アーレントの『全体主義の起原』『イェルサレムのアイヒマン』も入っておりました。妙なめぐり合わせ。ちなみに今は『人間の条件』を読んでいるところ。
哲学・宗教・心理などの人文系の整理のご依頼、歓迎いたします。
