《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
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学びの障害となっている恐れを学ぶ
2014.07.09
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40年前、私が生まれた年に出版された『かもめのジョナサン』。
3章で構成されているのですが、実は4章がありました。
著者のリチャードバックが2年前、自身が操縦する小型飛行機が事故を起こし瀕死の重症を負ったのがきっかけで、しまってあった4章を発表することに。
つい最近、新潮社からふたたび五木寛之の創訳で完成版が出版されたので、さっそく読んでみました。
十代に読んで以来だったので、第1章から。
ネタばれするので、これから先はそのつもりで。
かもめは食べることのために飛ぶ、それが群れの常識だったが、ジョナサンは飛ぶことに心を奪われ、寝食を忘れて飛ぶ練習に没頭する。
そのことが群れの掟を破ることになり、群れから追放されることに。
一人で練習を続けていたジョナサンが同じような考えのかもめのグループ-しかも自分より飛行術の優れた-に会い、ついに時空を超えた瞬間移動を身につける。
新参者ながら異例の速さで学んだジョナサンは指導的立場となり、ふたたび、元の群れに戻って自由を求めるかもめの手助けをする。
後継者といえるフレッチャーを育てて、ジョナサンは去る。
ここで第3章が終わる。
第4章では、ジョナサンなき後、フレッチャーなどジョナサンの弟子たちが崇拝され、ジョナサンは神格化される。
ジョナサンの言葉を引用するだけで、自分で飛行の意義を学ぼうとするものはいなくなる。
教えは形骸化され、形骸化された教えを説教するだけの幹部に反発するかもめが現れる。
ジョナサンの存在をおとぎ話としてとらえ、自分で飛行を学ぼうとする彼が死を覚悟したとき、ふたたび彼の前にジョナサンが現れる。
結局ジョナサンから逃れられないのか、という結末が残念ですが、宗教の変遷が描かれています。創始者が自ら見出した真理が教えとなり、形骸化され、反発してまた創始され、といったことが繰り返される。
これだけ見れば、非常に陳腐な話なのですが、ジョナサン自身は陳腐ではない。
なぜなら、彼は自発的に飛ぶことを追究しているからです。
「かもめの一生があんなに短いのは、退屈と、恐怖と、怒りのせいだ」ということを発見し、先輩格のかもめから、「きみみたいに学ぶことをおそれないカモメに、わたしは過去一万年のあいだ出会ったことがないぜ」と言わしめる。
こういうことが神格化をすすめてしまうのではありますが、ここはよく汲むべきエッセンスとなっています。
つまり、学びは恐怖が障害となっており、恐怖があるところに学びはない、ということ。
勇気を徳であるように一般には思われている節がありますが、勇気は恐怖を理解しないままに行動を起こしているということで、学びを放棄している姿勢なのです。
人が何かをなそうとするとき、恐怖が起きる。なぜ恐れるのでしょう。今までと変わったことをすることの何が怖いのか。つまるところ、自分が変わること、変わってしまった自分はもやは自分ではない、よって自分は死んでしまう、こういうことではないでしょうか。
卑近な例で、ビジネスを成功させるには、ビジネスの知識が大事なのではなく、恐怖をコントロールすることだということを経営者は言われることがあります。
たしかに、失敗するかもしれないが、変わらなければ成功はないので、踏み出すには恐怖を和らげる必要がある。理解できなくともコントロールできれば行動に出ることはできます。
ただ、それは恐怖を排除する姿勢なのでコントロールは理解ではない。理解とは共感なので。
学ぶとはつねに新たな死に自らを投げ出すこと、そこに恐怖があればいつまでも古い自分にしがみついたまま。とすれば、恐怖の正体を自ら見極めるしかないでしょう。学びを阻害する恐怖を学ぶ。自家撞着のようでいて、こうするほかない。人生にしがみついたままの自分が学ぶことはできません。しがみつくもののない生という大海でしか学びはないので。
訳者であるにも関わらず、五木氏は40年前からこの小説に違和感を持っておられます。
食べることは大切であるにもかかわらず、ないがしろにしていたり、女性がジョナサンのお母さんしか出てこなかったり、英雄を望むものだといった批判をされていました。
こういうものを望むアメリカ人の心性に興味があるのだと。
当時はヒッピーと呼ばれる若者に受け入れられた小説で映画化もされました。
虚しい現実を否定するために、ジョナサンに自らを重ね合わせてインドに修行に行ったりすることも理解とは無縁ですが、冷めた目だけで見ているのもまた理解につながらないはずです。
心酔することなく、批判的でもなく、虚心に没入するところにこそ学びが起こる。
そこには保持しようとする自身がなく、すなわち恐怖がありませんから。
