《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
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人脈と本脈
2015.02.03
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人が縁となって導かれていくような人のつながりを人脈と言います。
これは私の造語ですが、それとは別に本脈というのものものあります。
つまり、本が縁となって次の本を、また本だけでなく人をつなぐというもの。
先日、著作権がまだ残っている静坐関係の本を電子化してみたいと、遺族の方に許可を得ようとしましたが許されませんでした。
1)静坐は人に勧めるものではない
2)人の縁だけでよい
大まかに言うとこの2点ではないかと思われます。
これらについてはわかっているつもりではあるのですが、人脈ではなく本脈で静坐に至った者としては、あえて勧めるわけではありませんが、たどりつく一つのよすがとなればとの思いがあります。平たく言えば、私のような人のためです。
ですから勧めているわけではなく、かつ出版自体を否定するのであれば、紙媒体を出版されたこと自体はどうなるのか、ということになりましょう。創始者の言葉が絶対ではありませんが、創始者の岡田虎二郎氏は書けば間違いができると言って何も書き残されませんでした。
その語録を集めたり、手引きを作ること自体がその言葉から見ればそもそも誤りでしょう。
読めば字句にこだわってしまう、ただ実践に徹せよ、というのは間違いではありません。
ですが、こだわる人はこだわるし、こだわらない人はこだわらず、こだわっても別にかまわないではないかというのが私の考えです。
こだわりも徹底的にこだわればそれはそれでよい。徹底すればまた見えてくるものもあるでしょう。絶対だめだ、という意見こそが実はこだわりかもしれません。
2)の人の縁だけでよいということに関してですが、それならば私は歓迎されざる者であります。
また、そう言う方たちは血縁を含め、人の縁だけで来られた恵まれた方たちであって、たまたま金持ちに生まれただけで貧乏人のことなど知らぬと言っているのと近いのではないでしょうか。
昔は関連本がいくらか出版されていて、そこに静坐会のお知らせなどが載っていました。今ではほぼすべて絶版となっているので、HPはかろうじて最近できましたが知るよすががない。
そもそも人の縁だけでよいというのは身近な世界しか知らなくていいという井の中の蛙的な態度のようにも見えます。
釈迦も老荘もイエスもソクラテスもすべて、読めば間違いの元だから読む必要はない、ということになります。本縁がなければ数千年も前に生きたこれらの人たちを知ることはできず、私はこういう人たちが存在してくれていたことにありがたさを感じ、親しみを強く感じてきました。実際、今生きている人たちよりずっと強いものかもしれません。
別に哲学宗教といったものだけでなく、小説、詩、俳句、評論とありとあらゆる書物が次々に連鎖して読むべきものへと導いてくれたように思います。
本脈もまた人脈なり。
本は人の手によって書かれ、人の手によって流通されたものですから、人脈の一つだと言えます。よって本当は分けて考える必要もないのでしょう。
たとえ言葉は生きた証の残り粕であったとしても、残り粕しか私たちは見ることができず、しかしながらそれからも十分に豊かな世界を見出すことができる。でなければ、数千年前の言葉がどうして今まで残されてきたのか説明できないでしょう。
本脈という人脈に連なれば、世界はぐんと豊かになる。
昨夜はひさしぶりに荘子と語り合いました。紀元前の親しい友人。
写真は車の中のうしお。
