《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記
-
滝と弥勒菩薩
2015.05.30
-
連日ゆうに気温三十度超えを記録しており、取るべき行動はただ一つ。
滝に行くこと。
今日はうしお先生を連れて城陽の鴨谷の滝と椎尾の滝へ。
どちらもスーパー銭湯「一休」の向かいから山へ入っていきます。
橋を渡るとすぐにY字路になっており、左へ行けば鴨谷の滝、右が椎尾の滝。
まずは鴨谷の滝へ。ここは京都の自然200選に入っています。
30分程度の行程ですが、ロープを伝ったり、川瀬をのぼっていったりとちょっとハイキング感覚では無理でしょう。200選なのに案内もさほど詳しくなく。2段の小ぶりな滝。京都の滝なので小ぶりです。
ただ、幸いに誰もいない。
向かいの一休温泉には車がいっぱいなのに道を隔てたこちらの山には人が皆無。
マイナスイオンも浴び放題。
写真はこの滝前で。うしお先生もメイナスイオンを気持よさそうに浴びておりました。
Y字路まで戻り、今度は椎尾の滝。距離的には1200メートルほどで鴨谷の滝の2倍ほどありますが、こちらは大きな起伏はない林道を進んでいくので、無理のない行程。こちらも30分ほど。
ただ、こちらはあえて来るほどの滝ではないですね。
規模は鴨谷の滝と同じく落差5メートルほど。
こちらはおそらく行場だったと思われます。打たれる用ですね。
なので、打たれてみました。どのみち誰も来ないだろうと手ぬぐいだけもって滝の真下へ。
水量も多くはなく、心地いい刺戟でした。しかも目の前では山羊が草を食んでいる。
一昨日に太秦へ出張買取が2件あり、久々に広隆寺へ参拝してきました。
実はこの広隆寺に祀られてある弥勒菩薩像が、私が京都に来た理由の半分を占めています。
20回以上は来ているでしょうか。それほどに親しみのある仏像ですが、最近はご無沙汰しておりましたので、寄らせてもらいました。
幸い、京都でも観光客がさほど来るところでもなく、いつ来ても修学旅行生や一般客がまばらに見られる程度で助かっています。弥勒菩薩のお計らいかもしれませんね。
受付でもらう案内が以前と変わっていました。弥勒菩薩像の写真がイラストになり、哲学者のヤスパースが訪れた際の弥勒像の印象の抜粋もなくなっていました。より客観的な記述になっている感じです。
哲学を少しでもかじった人ならヤスパースが良心の哲学者であることを知っていますが、一般の参拝客は誰?という感じでしょうし、いたし方なしでしょうか。
なので、ここで再掲しておきましょう。
「この仏像は人間の持つ心の永遠の平和の理想を、真に余すところなく最高度に表している。
この地上における全ての時間的なるものの束縛を越えて達し得た、人間の存在の最も清浄な、最も円満な、最も永遠の姿の象徴である。」
座れる場所を設けてくれているので、20分ほど静坐して対峙しておりました。
静坐では仏像の鳩尾がへこみ、お腹が出ていることを見て、それを理想の姿と見ている風があります。奈良や鎌倉の大仏然り。たしかに多くの仏像がそうなのですが、それにも程度の差はあり、例外と言ってもいいのでしょうか。弥勒菩薩像は胸からお腹まで一本の枝のように起伏がありません。
私自身は、どちらかというとどっしりした仏像より、こちらのほうを好みます。
生命の表れなので、どっしりしたものもそうでないものもどちらもいいのではありますが。
なぜだろうと鑑みると、弥勒像と滝の類似性に思い至りました。
どちらも上から下まですっと滞りなく気が流れている。中心となる丹田を強調することもなく、存在自体を強調しない。これがヤスパースの言葉の表現するところの理由でしょう。
植物的であり、空気や水などのような自然さ。人間臭さが入り込んでいない。
仏像も滝もともに対峙すると、自らのありようが浮かび上がってきます。
それゆえに、多くの人たちが非日常とし、これらに向き合えない理由でもあります。
自らを調節してくれる働きがどちらにもある。ありがたい存在です。
ヤギと来て滝のメイナスイオンかな
滝壺や山羊まる洗ひされるまま
我が後に滝に打たるる蜻蛉かな
自由てふことさへ忘れ自由かな
