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《古書・古本の出張買取》 ロバの本屋・全適堂 の日記

見るのが仕事

2015.07.11

見るということについて、これまでも書いてきました。
古本屋が目利きの仕事であるという点で、見るという事柄に触れてきたわけですが、そもそも仕事というもの自体が見ることに尽きるのではないか、そう思っています。

古本屋にかぎって見れば、本を運んだり(力仕事)、本を拭いたり(清掃業)、ネットにデータ入力したり(事務作業)といったことすべてが仕事なのですが、実はそれらは誰がやってもいいことです。
教えればアルバイトでもできる作業。
ほかの仕事でも、こういった具体的な作業が仕事だと思っている向きがありますが、それは仕事ではなく作業と言ってよいのではないでしょうか。

イチローがバッティングについてこう言っています。
「目でとらえ、体でとらえ、最後にバットでとらえる」
具体的な作業はバットでとらえることですが、そこにしか目が行っていない人は物事を追いかけていくだけ。
おそらく全体的な視野でとらえていないので疲弊してしまう。
まずは見ること。焦点が合えば、おのずと身体は反応して作業へと移行していきます。

では、見るとは何か。
断捨離や守破離という言葉がふと浮かびました。どちらにも「離」がある。
見るとは「離」。木に目をくっつけても木は見えない。全体が見えるところまで離れてはじめて木の存在が明らかになる。
具体的な作業に捉われすぎて(目をくっつけすぎて)しまう傾向にあるから離れなければならない。鳥の目で見る鳥瞰でないと、地上にいるエサを見つけることはできません。

けれども、「エサ、エサ、エサ」と躍起になってエサを見つけようと凝視するのは、ここでいう見るではありません。
何も見つけようとせず、ただ焦点が合うのを待つ。情報は自分の中にありますから、おのずと視界に入ったものがエサだと認識され、あとは作業、地上に下りてエサをくわえてまた空に戻る。
用が済めばすぐに空へ戻る。また見るでもなしに見る。
ただ、あまりにも離れすぎて宇宙にまで行ってしまえば、地上のエサを見つけることはできません。
ちょうどいい距離まで離れること。これが不即不離。つかず離れずというところ。「エサ、エサ、エサ」とがっつかなければちょうどいい距離にいることができる。

読書についても、読むではなく見るの意識でいたほうが目に入ってきます。
目に入れるのではなく、入ってくる。一字一句読んでいても時間がかかるし、近視眼的な見方になるのでつながりがわからなくなってくる。最初はわくわくして読んでいたはずが五里霧中になって読むのに倦んでくる、飽きてくるというのはよくあるでしょう。
見る、この場合は眺めるに近いでしょう。そうしていればどうでもいいところは軽くなめるように進み、ここぞというところ(鳥にとってのエサ)で地上に下りてじっくり読む。どこがエサかわからないというのは自分のセンサーを信頼していないことから起こります。
自分が欲しているものは自分がよく知っているので、エサがあれば勝手に反応するだろうと気楽に眺めていればいいでしょう。

私は俳句を詠んでみたりもしますが、俳句というのは非常に見るという能力を鍛えてくれると思っています。
基本、俳句は言葉で写生すること。それも五七五の十七文字という短い詩形の中に収めますから、余計なことは入れられない。
ある瞬間を切り取る作業。ある瞬間をある瞬間と見定めるのが見るということにほかなりません。
見るでもなく見ている、これを瞑想と呼びます。物・作業につきすぎず、離れることで冷静になる。
エサが視界に入ったときに即座に対応できる状態。普段は愚かに見えるほどゆったりしている。

普段から瞑想にあれば、仕事やプライベートといった区別はなくなるでしょう。すべてどれも眺められている状況に過ぎませんから。
作業という結果、イチローのいうところのバットでとらえることだけに意識が向けば、それぞれの差異に目を奪われる。
見られた結果の作業と作業に執着する作業では、同じ作業でもそこに至った過程が違う。
仏教の八正道では正見が最初に来ます。正しく見ればあとはおのずから展開される。膨大な経典はそこから展開された芸術作品ですから、正見さえあれば、経典など一切いらないということも言えるわけです。
見る主体はなく、見るが何かを発見したときに主体(自我)は現れる。エサを発見したぞ、あとはがんばれよということで自我がその作業を引き受けることになります。
見ているときに自我はない。これが自分が見ているかどうかの判断基準になるでしょう。


 天籟の耳に残るや夕立後

 ストイックなるこの身体この胡瓜

 長梅雨や語れぬものを語りたし


写真は、南丹市のドッグカフェ「おかげさんで」におじゃましたミニヤギうしお。
ドッグカフェでヤギは断られることが多いのですが、快く受け入れてくださいました。

見るのが仕事

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